Asagi's Art News
楽園 ~ ゴーギャン展 ― 2009年08月17日 23時57分26秒
東京駅の日本橋口というところは、ビルに囲まれた長距離バスのターミナルのようでした。ホテルの入り口とスタバがある(他にもあったような・・・)見慣れない空間になっています。ゴーギャン展は、あのゴッホ展以来の送迎バスが、その東京駅の日本橋口から出ていました。なんとなく盛り上がりはいまいちのようですが、NHKと近代美術館はとても気合をいれているようです。
送迎バスはタヒチをイメージした黄色のスモールラッピングバスで、運転手のおじさんが独り言のようにガイドしてくれます。5分程度距離ですが、なかなか楽しい道のりです。さて、近代美術館ですが金曜の午後だったからか、それほどの込みではありません。送迎バスまで出しているのにと思いましたが・・・きっと土日はたくさんの人でにぎわうだろうと思いなおし会場に入りました。
フランス時代の初期の作品からスタートしています。ちょうどアルルでゴッホを裏切ったときの頃から作品で、まだまだ画風の模索が続いているようです。当時から赤系をメインの色に持ってくることが多いようです。堂々とした自画像の背景も赤で・・・自分でも嫌われ者ということが判っていたような感じがします。
今回の展覧会はタヒチでの作品を多く集めているようです。国内の美術館からもかなり出品されていたのが意外でした。バブルがはじけゴーギャンも国外に行ってしまったと思っていましたが、ちゃんと残っていたのが良かったです。また、意外はもうひとつあって、近代美術館では珍しいビデオを使った解説を取り入れていました。
ビデオは『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』のためのものですが、この作品を盛り上げ方は、新国立でのフェルメール展のとき同じ…きっとあのときと同じキュレータの仕掛けのような気がします。ビデオにより視覚的に見所を確認して、いざ本物とご対面になります。
ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか、1895」
第一印象は、とても大きく大迫力でせまってきます。ゴーギャン独特のカラーが南国の異空間に変えてしまいます。宗教とも哲学ともいえる意味がところどころに描かれているようです。生まれ来るものと逝ってしまうもの・・・彼のたどった人生がかさなり、ふてぶてしく見るものを威圧するように感じます。
人本来の意味を問うようにも見えますが、「ここは楽園であり近づくことはできない」とも言っているように思います。ヨーロッパから南太平洋までの旅路は、とても過酷なものだと思います。選ばれたものだけがたどり着ける楽園。そして、選ばれたものだけが描ける楽園なのだと、ゴーギャンの高笑いが聞こえるようです。
※ゴーギャン展
送迎バスはタヒチをイメージした黄色のスモールラッピングバスで、運転手のおじさんが独り言のようにガイドしてくれます。5分程度距離ですが、なかなか楽しい道のりです。さて、近代美術館ですが金曜の午後だったからか、それほどの込みではありません。送迎バスまで出しているのにと思いましたが・・・きっと土日はたくさんの人でにぎわうだろうと思いなおし会場に入りました。
フランス時代の初期の作品からスタートしています。ちょうどアルルでゴッホを裏切ったときの頃から作品で、まだまだ画風の模索が続いているようです。当時から赤系をメインの色に持ってくることが多いようです。堂々とした自画像の背景も赤で・・・自分でも嫌われ者ということが判っていたような感じがします。
今回の展覧会はタヒチでの作品を多く集めているようです。国内の美術館からもかなり出品されていたのが意外でした。バブルがはじけゴーギャンも国外に行ってしまったと思っていましたが、ちゃんと残っていたのが良かったです。また、意外はもうひとつあって、近代美術館では珍しいビデオを使った解説を取り入れていました。
ビデオは『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』のためのものですが、この作品を盛り上げ方は、新国立でのフェルメール展のとき同じ…きっとあのときと同じキュレータの仕掛けのような気がします。ビデオにより視覚的に見所を確認して、いざ本物とご対面になります。
ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか、1895」
第一印象は、とても大きく大迫力でせまってきます。ゴーギャン独特のカラーが南国の異空間に変えてしまいます。宗教とも哲学ともいえる意味がところどころに描かれているようです。生まれ来るものと逝ってしまうもの・・・彼のたどった人生がかさなり、ふてぶてしく見るものを威圧するように感じます。
人本来の意味を問うようにも見えますが、「ここは楽園であり近づくことはできない」とも言っているように思います。ヨーロッパから南太平洋までの旅路は、とても過酷なものだと思います。選ばれたものだけがたどり着ける楽園。そして、選ばれたものだけが描ける楽園なのだと、ゴーギャンの高笑いが聞こえるようです。
※ゴーギャン展
ミステリー ~ ラロックの聖母 ― 2009年08月23日 21時43分13秒
前回は惜しくも会場までたどり着くことができず、あらためて人出が少なそうな日を選びリベンジをすることにしました。お天気は、雨が降りそうな曇り、家族連れが帰宅する夕方の閉館前です。それでも、人気のスポットのフジテレビだけあって、あの球体へは10分近くエレベータを待つことになりました。
なんとか24Fまで到着して、階段を使って25Fの聖母の待つ球体に移動しました。球体の中は思ったよりも小さい感じですが、中に入るとテレビ屋さんらしい演出でいくつかのモニターで聖母発見のVTRを流していました。
ちょうどしきりになっている壁に向こう側に聖母があるらしく、少しですが人の列ができていました。列に並ぶとすぐにアクリル板に囲まれた『ラロックの聖母』があらわれました。意外に小さい印象で、やはり全体的に画面が暗い感じがします。
作者不詳「ラロックの聖母、16世紀?」
スポット光がやや強めなのが気になりましたが、キャンバスの裏側も見えるように工夫しているところは感心できます。思ったよりもきれいな状態で、細部もかろうじて判りました。聖母の光臨こそ判りづらいですが、背景も少し引いてみるとかすかに判ります。聖母の顔もとても優しそうで良い顔をしています。
本物であるかの真偽が話題になっていますが、古い時代の貴重な作品であることは事実のようです。あまり強いオーラのようなものは感じませんが、いろいろな意味で興味深い作品です。なぜいまになって現れたのかとか…
テレビ屋さんが騒ぎ立てるミステリーも面白いですし、ルネッサンス期の作品にはなかなか会うこともできないので、とても貴重な機会だと思います。テレビ屋さんが扱うと客寄せ的な色もののような印象を与えかねないですが、地味な研究を重ねて新たな発見があると良いなと思います。わざわざお台場まで足を運んだかいがあったように思いました。
※ラロックの聖母
なんとか24Fまで到着して、階段を使って25Fの聖母の待つ球体に移動しました。球体の中は思ったよりも小さい感じですが、中に入るとテレビ屋さんらしい演出でいくつかのモニターで聖母発見のVTRを流していました。
ちょうどしきりになっている壁に向こう側に聖母があるらしく、少しですが人の列ができていました。列に並ぶとすぐにアクリル板に囲まれた『ラロックの聖母』があらわれました。意外に小さい印象で、やはり全体的に画面が暗い感じがします。
作者不詳「ラロックの聖母、16世紀?」
スポット光がやや強めなのが気になりましたが、キャンバスの裏側も見えるように工夫しているところは感心できます。思ったよりもきれいな状態で、細部もかろうじて判りました。聖母の光臨こそ判りづらいですが、背景も少し引いてみるとかすかに判ります。聖母の顔もとても優しそうで良い顔をしています。
本物であるかの真偽が話題になっていますが、古い時代の貴重な作品であることは事実のようです。あまり強いオーラのようなものは感じませんが、いろいろな意味で興味深い作品です。なぜいまになって現れたのかとか…
テレビ屋さんが騒ぎ立てるミステリーも面白いですし、ルネッサンス期の作品にはなかなか会うこともできないので、とても貴重な機会だと思います。テレビ屋さんが扱うと客寄せ的な色もののような印象を与えかねないですが、地味な研究を重ねて新たな発見があると良いなと思います。わざわざお台場まで足を運んだかいがあったように思いました。
※ラロックの聖母
山河あり ~ 犬塚勉展 ― 2009年08月25日 22時52分21秒
奥多摩のせせらぎの里は東京の西にあります。東京と言っても周りを山で囲まれた自然豊かなところです。横浜線、八高線、青梅線と乗り継ぎ御岳という駅まで…はっきり言って遠いです。せせらぎの里美術館は電車で行くところではなく、駅からも遠いので車を使ったほうがたぶん便利でしょう。
ただ、気になる作品を知ってしまった以上、行くしかないだろうと思い頑張って行って来ました。日曜美術館では、あまり知られていない画家の特集をすることもあり、犬塚勉もまたその一人でした。
テレビでは、そこにある自然を細かく観察して丹念に描かれていて、とても緻密であり本物がみたいと思わせるような作品でした。彼は、同じ時代に生きて…最後は作品を極めるため山に入り命を落としてしまいます。画家としてはこれからだという時の出来事ですが、作品は残り何かを語りはじめます。
さて、展覧会ですが、会場のせせらぎの里美術館は古民家を改築したような感じの建物で、それほど大きくはありません。作品も30点ほどのささやかな感じです。同じようにテレビで知って訪れた人や奥多摩に来たハイカーたちで意外に盛況でした。
地元多摩の風景がそこにあります。そして、森、野原、原生林、そして河と作品は展開します。作品からは孤高の中で修行を積む僧侶のような寡黙さと、丹念に仕上げられた写実が伝わってきます。例えるなら高島野十郎の描く世界に近い感じがします。
犬塚勉「梅雨の晴れ間、1986」
『梅雨の晴れ間』は、テレビでも取り上げられた作品ですが、自宅の庭に自然の力強さと光の陰影の美しさに心ひかれます。描かれているのは草木は、人が丹精を込めて作ったものでなく、台地の根付く雑草たちです。そんな彼らも美しい花をつけ、命の尊さまであらわしているようにも思います。
伝えたいことの半分も残せずに死んでしまったと思います。しかし、残った作品は、これからも強い意志を伝えていくのだろうと思います。帰り道に川に面する遊歩道を歩きました。自然の力強さと美しさが作品と重複して感動がよみがえり、気持ちの良い一日となりました。
※せせらぎの里美術館
ただ、気になる作品を知ってしまった以上、行くしかないだろうと思い頑張って行って来ました。日曜美術館では、あまり知られていない画家の特集をすることもあり、犬塚勉もまたその一人でした。
テレビでは、そこにある自然を細かく観察して丹念に描かれていて、とても緻密であり本物がみたいと思わせるような作品でした。彼は、同じ時代に生きて…最後は作品を極めるため山に入り命を落としてしまいます。画家としてはこれからだという時の出来事ですが、作品は残り何かを語りはじめます。
さて、展覧会ですが、会場のせせらぎの里美術館は古民家を改築したような感じの建物で、それほど大きくはありません。作品も30点ほどのささやかな感じです。同じようにテレビで知って訪れた人や奥多摩に来たハイカーたちで意外に盛況でした。
地元多摩の風景がそこにあります。そして、森、野原、原生林、そして河と作品は展開します。作品からは孤高の中で修行を積む僧侶のような寡黙さと、丹念に仕上げられた写実が伝わってきます。例えるなら高島野十郎の描く世界に近い感じがします。
犬塚勉「梅雨の晴れ間、1986」
『梅雨の晴れ間』は、テレビでも取り上げられた作品ですが、自宅の庭に自然の力強さと光の陰影の美しさに心ひかれます。描かれているのは草木は、人が丹精を込めて作ったものでなく、台地の根付く雑草たちです。そんな彼らも美しい花をつけ、命の尊さまであらわしているようにも思います。
伝えたいことの半分も残せずに死んでしまったと思います。しかし、残った作品は、これからも強い意志を伝えていくのだろうと思います。帰り道に川に面する遊歩道を歩きました。自然の力強さと美しさが作品と重複して感動がよみがえり、気持ちの良い一日となりました。
※せせらぎの里美術館
巨石来日 ~ 海のエジプト展 ― 2009年08月31日 00時51分09秒
横浜開港博の評判がいまひとつで人気がないようです。そして、この開港博に合わせて「海のエジプト展」もスタートしました。巨大な石像を持ち込んでの大イベントでもあり、この点は開港博と目的が違っているので入場者数では有利かもしれないと思ってしまいます。
場所は、見本市会場となるパシフィコ横浜です。最寄り駅は、みなとみらい駅なのですが、すっかり海のエジプト展一色で気合いが入っていました。ちょうど夏休みで、たくさんの子どもたちの姿もありました。
さすがに大きな会場で、いつもの展覧会とは雰囲気が違います。広告でも言っていたようにカノープス、ヘラクレイオン、アレキサンドリアの時代ごとにブースが分かれいました。そして、最後には何やらバーチャル映像なるものが・・・
エジプト王朝の後期の作品なのですが、意外にきれいで原形をとどめているのが驚きでした。海に埋もれていたとはいえ、それなりの年月が過ぎているので期待はしていなかったのですが、なかなかどうしてです。
ポスターで目にした首のない王妃の像などは、身にまとった衣装が透けて、そのボディーラインはとても美しいもです。卓越して技術と美的センスの融合は、とても2000年もの歳月が過ぎているとは思えません。
そして、5mを越えるファラオの像は大迫力で、わざわざ遠い横浜まで着てくれたんだと嬉しくなりました。ここまで大きいと美術館では見ることができないと思います。チケットは高いですが、それなりのものを見ることができて良かったと思います。
さて、最後のバーチャル映像なのですが、アレキサンドリアの街のコンピュータグラフィックでした。巨大スクリーンに映し出しているのですが・・・やれやれと言った感じです。開港博というお祭りも兼ねているのでしかたがないのでしょうか?
※海のエジプト展
場所は、見本市会場となるパシフィコ横浜です。最寄り駅は、みなとみらい駅なのですが、すっかり海のエジプト展一色で気合いが入っていました。ちょうど夏休みで、たくさんの子どもたちの姿もありました。
さすがに大きな会場で、いつもの展覧会とは雰囲気が違います。広告でも言っていたようにカノープス、ヘラクレイオン、アレキサンドリアの時代ごとにブースが分かれいました。そして、最後には何やらバーチャル映像なるものが・・・
エジプト王朝の後期の作品なのですが、意外にきれいで原形をとどめているのが驚きでした。海に埋もれていたとはいえ、それなりの年月が過ぎているので期待はしていなかったのですが、なかなかどうしてです。
ポスターで目にした首のない王妃の像などは、身にまとった衣装が透けて、そのボディーラインはとても美しいもです。卓越して技術と美的センスの融合は、とても2000年もの歳月が過ぎているとは思えません。
そして、5mを越えるファラオの像は大迫力で、わざわざ遠い横浜まで着てくれたんだと嬉しくなりました。ここまで大きいと美術館では見ることができないと思います。チケットは高いですが、それなりのものを見ることができて良かったと思います。
さて、最後のバーチャル映像なのですが、アレキサンドリアの街のコンピュータグラフィックでした。巨大スクリーンに映し出しているのですが・・・やれやれと言った感じです。開港博というお祭りも兼ねているのでしかたがないのでしょうか?
※海のエジプト展