Asagi's Art News
相反するようなキーワード ~『光 』松本陽子/野口里佳展 ― 2009年10月06日 00時15分14秒
すでに秋ですが、『光』というタイトルから夏を意識した展覧会であるようです。抽象画と写真という変わった2人展です。松本陽子の作品は、以前からよく見かけていて知っていますが、野口里佳の作品に出会うのは初めてだと思います。
2人展の場合、どのような展示をするかも楽しみのひとつでしょう。交互に作品を配置したり、テーマごとに組み合わせをしたりとバリエーションは、いくらでもあります。今回は完全分離で右側を野口の作品、左側を松本の作品としていました。
入り口はひとつですが、最初にどちらの作品を見るかを選択をさせられます。2人の作品はかなり異なるため、どちらを先に見るかちょっと悩みます。あさぎは単純に見たことのない野口の写真から見ることにしました。
富士登山の風景からはじまり、海底遺跡、太陽・・・と幻想的な感じのする作品でさまざまなフィールドに挑戦する姿勢が伝わってくるようです。展示も工夫していて、周りを暗くしてスポット光で見せるなどなかなかおもしろいです。
そして、中間地点から松本の作品に変わります。彼女の作品は、大きな作品でダイナミックで動きを感じるものが多くあります。抽象画なのですが、何か生き物ような感じもしてきます。女性なので年齢のことを言うのは失礼かもしれませんが、70歳をこえる大御所です。
異なる作品ですが、不思議に調和あったようにも思えます。現実とインスピレーション、静と動…相反するようなキーワードが思いつくのですが、テーマは似ているのかもしれません。『光』で結びつく2つの世界は、同じものをとらえているのだと思います。
※国立新美術館
2人展の場合、どのような展示をするかも楽しみのひとつでしょう。交互に作品を配置したり、テーマごとに組み合わせをしたりとバリエーションは、いくらでもあります。今回は完全分離で右側を野口の作品、左側を松本の作品としていました。
入り口はひとつですが、最初にどちらの作品を見るかを選択をさせられます。2人の作品はかなり異なるため、どちらを先に見るかちょっと悩みます。あさぎは単純に見たことのない野口の写真から見ることにしました。
富士登山の風景からはじまり、海底遺跡、太陽・・・と幻想的な感じのする作品でさまざまなフィールドに挑戦する姿勢が伝わってくるようです。展示も工夫していて、周りを暗くしてスポット光で見せるなどなかなかおもしろいです。
そして、中間地点から松本の作品に変わります。彼女の作品は、大きな作品でダイナミックで動きを感じるものが多くあります。抽象画なのですが、何か生き物ような感じもしてきます。女性なので年齢のことを言うのは失礼かもしれませんが、70歳をこえる大御所です。
異なる作品ですが、不思議に調和あったようにも思えます。現実とインスピレーション、静と動…相反するようなキーワードが思いつくのですが、テーマは似ているのかもしれません。『光』で結びつく2つの世界は、同じものをとらえているのだと思います。
※国立新美術館
新世紀の創造 ~ クリムト、シーレ ウィーン世紀末展 ― 2009年10月14日 23時46分25秒
終末思想とは、一部の人々が信じ恐れていたようにも思います。だから、一般の人々にどこまで浸透していたのかは判りません。それに、日本人には、なかなか理解できないのではないでしょうか。宗教も、暦も、異なる最果ての島国にいるのですから。
多くの人が、既に20世紀末を体験しました。たしかにコンピュータなどの問題であたふたをしましたが、誰かの予言ですべて終わるような気分になるようなことは、けしてありませんでした。
しかし、情報の少なかった19世紀末は、いまとは少し事情が違ったか、もしれないと思います。世界の中心のヨーロッパでは、戦争の影や不安定な政治経済に古い時代の言い伝えが加わって、すべてが暗く不安な気持ちにしていったのかもしれません。
クリムトとシーレの代表的な作品は、終末的とも退廃的とも言われます。たしかに、描かれる人物やテーマから官能的なインパクトが伝わってきます。しかし、その作品は、彼らは新しい表現を探りながら、たまたま行き着いた世界であるように思います。
古い画壇との決別、新しい技術や色彩の取り込みは、退廃的と言うよりも斬新的と言った方が良いと思います。例えは、この展覧会で出会えたクリムトの『パラス・アテネ』は、威厳ある未来を見据えているようです。日本の琳派を継承したそのスタイルから新世紀の創造を感じることが出来ます。
グスタフ・クリムト「パラス・アテネ、1898」
※日本橋高島屋
多くの人が、既に20世紀末を体験しました。たしかにコンピュータなどの問題であたふたをしましたが、誰かの予言ですべて終わるような気分になるようなことは、けしてありませんでした。
しかし、情報の少なかった19世紀末は、いまとは少し事情が違ったか、もしれないと思います。世界の中心のヨーロッパでは、戦争の影や不安定な政治経済に古い時代の言い伝えが加わって、すべてが暗く不安な気持ちにしていったのかもしれません。
クリムトとシーレの代表的な作品は、終末的とも退廃的とも言われます。たしかに、描かれる人物やテーマから官能的なインパクトが伝わってきます。しかし、その作品は、彼らは新しい表現を探りながら、たまたま行き着いた世界であるように思います。
古い画壇との決別、新しい技術や色彩の取り込みは、退廃的と言うよりも斬新的と言った方が良いと思います。例えは、この展覧会で出会えたクリムトの『パラス・アテネ』は、威厳ある未来を見据えているようです。日本の琳派を継承したそのスタイルから新世紀の創造を感じることが出来ます。
グスタフ・クリムト「パラス・アテネ、1898」
※日本橋高島屋
昭和の苦悩 ~ 小野忠重展 ― 2009年10月21日 00時16分03秒
昭和初期は、戦争に突き進む暗い側面を持っています。また、階級社会による格差は、現在よりもより厳しい状況であったと思います。特にプロレタリアート(労働者階級)に属する人々は、長時間の労働と低賃金に苦しんでいたことが、小野忠重の木版画から伝わってきます。
苦悩は、黒く太い線で表現されブルジョアジー(資本家階級)との対立を物語っているようでした。日本において、その流れが共産化に向かうことはなかったですが、我慢は限界に達して革命が起こる寸前だったかっもしれません。
昭和は、激動の時代であり、終戦を迎えても問題はたくさんありました。すべてが変わってしまった訳ではないと思いますが、小野の作品も多少変化があったように思います。例えば、社会運動から身近な人々への視点の変化ありました。
しかし、復興と発展の中にも取り上げなければならない社会問題が出来てきます。そして、彼は再び作品にメッセージを託すことになります。原爆投下後の広島、長崎での悲劇、公害によって失われる自然と被害に遭う人々・・・
小野忠重「廣島の川、1966」
静寂を感じる作品からは、多くの問題定義がされているように思います。いつの時代も人々は、さまざまな苦悩を体験します。それをどのように見つめて解決策を探るのか、彼の作品はその問いかけをしているようです。
※国際版画美術館
苦悩は、黒く太い線で表現されブルジョアジー(資本家階級)との対立を物語っているようでした。日本において、その流れが共産化に向かうことはなかったですが、我慢は限界に達して革命が起こる寸前だったかっもしれません。
昭和は、激動の時代であり、終戦を迎えても問題はたくさんありました。すべてが変わってしまった訳ではないと思いますが、小野の作品も多少変化があったように思います。例えば、社会運動から身近な人々への視点の変化ありました。
しかし、復興と発展の中にも取り上げなければならない社会問題が出来てきます。そして、彼は再び作品にメッセージを託すことになります。原爆投下後の広島、長崎での悲劇、公害によって失われる自然と被害に遭う人々・・・
小野忠重「廣島の川、1966」
静寂を感じる作品からは、多くの問題定義がされているように思います。いつの時代も人々は、さまざまな苦悩を体験します。それをどのように見つめて解決策を探るのか、彼の作品はその問いかけをしているようです。
※国際版画美術館
至福の時間 ~ Theハプスブルク展 ― 2009年10月30日 22時00分43秒
再びベラスケスのマルガリータに会える機会がやって来ました。ハプスブルクの華麗な歴史絵巻のひとつの出来ごとですが、彼らの出会いは秘めた愛を物語る記録としていまに残っています。
ベラスケスのマルガリータを描いた作品と他の作品と比べると、それはとても明かです。注文主の意向を遙かにこえています。幼い可憐なお姫様に心を奪われ、懇親の力をつくして描かれいるのです。例え、何百年経っていても、誰もがそれに気づいてしまいます。
今回は、たまたまフェリペ皇太子の肖像と並んでの展示となりました。フェリペの肖像からは仕事しての完璧さがあるのですが、それ以上のものは感じられません。しかし、同じような構図のマルガリータの肖像からは、絵の中に時間を閉じ込めてしまいたいというような彼の暗示感じます。
マルガリータ王女と過ごすその時が、彼にとっての密かな至福の時間だったと思います。マルガリータには既に許嫁がいて、宮廷画家とは住む世界が違う・・・それでも、何とかしたい気持ちが永遠に絵の中に残っているのだと思います。
ディエゴ・ベラスケス「白衣の王女マルガリータ・テレサ、1656」
このような話は、どこにでもあると思います。しかし、画家はその想いを作品にして残します。ただ、高い報酬と引き替えに、その作品も画家の元から去っていきます。その寂しさまでも伝わる一枚のようでした。
※Theハプスブルク展
ベラスケスのマルガリータを描いた作品と他の作品と比べると、それはとても明かです。注文主の意向を遙かにこえています。幼い可憐なお姫様に心を奪われ、懇親の力をつくして描かれいるのです。例え、何百年経っていても、誰もがそれに気づいてしまいます。
今回は、たまたまフェリペ皇太子の肖像と並んでの展示となりました。フェリペの肖像からは仕事しての完璧さがあるのですが、それ以上のものは感じられません。しかし、同じような構図のマルガリータの肖像からは、絵の中に時間を閉じ込めてしまいたいというような彼の暗示感じます。
マルガリータ王女と過ごすその時が、彼にとっての密かな至福の時間だったと思います。マルガリータには既に許嫁がいて、宮廷画家とは住む世界が違う・・・それでも、何とかしたい気持ちが永遠に絵の中に残っているのだと思います。
ディエゴ・ベラスケス「白衣の王女マルガリータ・テレサ、1656」
このような話は、どこにでもあると思います。しかし、画家はその想いを作品にして残します。ただ、高い報酬と引き替えに、その作品も画家の元から去っていきます。その寂しさまでも伝わる一枚のようでした。
※Theハプスブルク展