Asagi's Art News





太陽 ~ 没後120年 ゴッホ展 -こうして私はゴッホになった-2010年10月17日 18時45分55秒

ミュージシャンの平井堅は、この展覧会のために『太陽』という楽曲を作ったそうです。ときどきテレビなどから流れてきますが、ゆっくりとしたメロディと彼の透き通る歌声に癒されます。ゴッホ(1853-1890)の創作と人生に対して想いを込めているのだと思います。ゴッホと太陽のイメージは、ぴったりでとっても良いと思います。

人気のある画家であり、ある部分に商業主義的な要素が加わってしまうのはしかたのないところです。しかし、広く多くの人たちにすばらしい絵画や素敵な美術館を知ってもらうためには、良いことだと思います。六本木地区では、こうした取り組みが上手く行っているようで大変嬉しいことです。

ゴッホ展

さて、今回のゴッホ展は、東京で開催される久しぶりの大きな回顧展です。同時代の作品の展示もアナウンスされ、どんな展覧会になるのか楽しみにしていました。実際に人気も上々で、展覧会がはじまったばかりにもかかわらず、たくさんの人が新美術館にやって来ていました。

作品の展示は、オーソドックスな時代順で構成されていました。同時代の作品は、アクセントとして挿入していて鑑賞の幅を広げる手助けになっているようです。また、想像ですが、同時代の作品を挿入したのは、ゴッホの作品は激しいので鑑賞者に対してクッションの役割を持たせるためではと思っています。

前半は、ゴッホの色鮮やかな風景画や静物画も控えめという感じです。スケッチやデッサンなどのモノクロの作品もあるのですが、画風が確立するまでの試行錯誤が見てとれるのは、大変興味深いところです。そして、何を描くべきかを見出したにもかかわらず、当時の彼の作品に対する評価は冷たいものだったのです。

中間点では、ビデオ解説を配置していました。これは、後半の誰でもが知っているゴッホらしい作品の期待感を演出しているのだと思いました。また、このビデオ解説を見せることで、鑑賞者の流れの調整をしているように思われ、展覧会の構成としても大変おもしろいと思います。

ゴッホ展
フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの寝室、1888」

後半は、ゴッホらしい色鮮やかな作品が続いて行きます。厚塗りされた青や緑や黄色が画面の中で舞っている様は感動的です。そして、目玉の作品でもある『アルルの寝室』のところでは、何とその寝室を絵から再現した模型が迎えてくれます。模型の展示の賛否はあると思いますが、主催のTBSの力作で大変良くできています。

自画像もちゃんと2点来ています。展覧会では、共に1887年に描かれた作品で『自画像』と『灰色のフェルト帽の自画像』です。新天地アルルを目指す1年前に描かれたものです。ロートレック(1864-1901)やベルナール(1868-1941)、そして、ゴーギャン(1848-1903)とも知り合った頃で、彼らからいろいろな影響を受けていたと思います。

ゴッホ展
フィンセント・ファン・ゴッホ「灰色のフェルト帽の自画像、1887」

新しい時代への期待に満ちあふれるような眼差しで見つめています。この後、彼に訪れる困難や挫折など微塵も感じていないよう思います。高い理想の実現が使命なのです。そして、その高い理想が彼自身を苦しめることになるのです。

もしかすると彼の行動や発言から、自己中心的な厄介者と思われていたかもしれません。しかし、成し遂げようとする熱い想いが、太陽にように輝きを放つすばらしい作品を残したのだと思います。彼の人生を不幸であると言う人もいますが、彼の想いはひとつずつキャンバスで具現化していきました。だから、辛いことはあっても悔いのない人生であったと思います。

※国立新美術館(2010年10月1日~2010年12月20日)

奉納 ~ 小泉淳作展2010年10月20日 22時00分12秒

横浜西口の賑わいは横浜一なのですが、大規模な再開発が出来ずにいる古い地域です。百貨店も東口のそごうに対して老舗の高島屋となるのですが、やはり老朽化は目立ってきています。もちろん、高島屋にも展覧会をするスペースがあります。しかし、なかなか企画展を開く機会がないようです。

今回は、先に日本橋高島屋で開催された「小泉淳作展」が巡回となり展覧会が開かれました。「平城遷都1300年光明皇后1250年御遠忌東大寺本坊襖絵完成記念」なる長いサブタイトルがついていて、完成したばかりの奈良東大寺本坊の障壁画を見ることが出来ます。

小泉淳作(1924-)は、京都に行ったおり建仁寺で見た双竜の天井画を描いた日本画家です。鎌倉出身で特定の画壇に属さない重鎮です。50歳を過ぎた頃から注目を集めた遅咲きの画家ですが、繊細な筆使いで緻密な描写を得意としています。植物、特に野菜などは、独特の存在感に魅力があります。

展覧会では、その50歳頃の作品から紹介していて、障壁画は狭いスペースですが、東大寺本坊の内部を再現するよう組み立てられていました。庭に面して配置される障壁画には、蓮池の様子が写しとれています。花や葉のひとつひとつが細かい表情で描き分けられていて、全体を見渡すと大きな池を彷彿させるとてもバランスの良い作品です。

小泉淳作
小泉淳作「蓮池(部分)、2010」

その奥の部屋には、小泉が生涯ではじめて描いたという吉野の桜が隠れています。とても細かい桜の花びらが一面に描き込まれていて、本人も修行するような想いで乗り越えたといっていました。何故いままで桜を描かなかったか、その理由を「桜を描けば売れるので、そのような題材を描くことに抵抗があった」と述べています。

…ちょっとへそ曲がりで、おもしろい人物に魅力を感じます。歴史を振り返えると、神社仏閣に奉納できる作品を描くことが出来るのものは、本当に限られたものだけです。絵が上手いだけでは、成し遂げらることが出来ない、何かを必要とするのだと思います。神仏をもうならせる確かな志が必要ということなのです。

※横浜高島屋(2010年10月14日~2010年10月25日)

透き通るベール ~ 日本画と洋画のはざまで2010年10月24日 21時44分53秒

日が暮れるのが早くなってきました。閉館時間が近づき美術館にも明かりが灯るのですが、これもなかなか趣があります。黄昏時に弱くなった自然の光と力強い人の光が混じり合う素敵な一瞬は、街に暮らす密かな楽しみなのです。

山種美術館には、渋谷からバスで向かいました。バスが信号や停留所で停まるたび、その時は徐々に近づいて来ます。バスを降り美術館に近づくと、夕焼けで赤みを帯びた空と美術館から漏れる光が街の輝きのひとつを作り出していました。

山種美術館

街の輝きをしばらく見ていたかったのですが、閉館時間も迫ろうとしていたので美術館に入ることにしました。今回、山種美術館は、開館1周年記念として所蔵品の中からの選りすぐりによる企画で「日本画と洋画のはざまで」という興味深い展覧会となっていました。そして、この時間帯は、鑑賞者も少ない好条件が揃うのです。

特に注目していたのは、村上華岳の『裸婦図』です。定期的に展示されているようなのですが、いままで村上の作品を見る機会がなかったこともあり、また「美の巨人たち」をはじめテレビなどにも取り上げられ、是非本物をじっくりと見たかったのです。

山種美術館
村上華岳「裸婦図、1920」

目的の『裸婦図』は、展覧会のちょうど中間点になるやや広くなった部屋にありました。思っていたよりも大きな作品でしたが、そう言えば「美の巨人たち」でほほ等身大の大きさの女性像と言っていたことを思い出しました。

女性は、確かに裸婦に見えるのですが、透き通るベールのような衣装を身につけています。それが、素肌をより引き立て艶めかしくなっているのかもしれません。しかし、離れて全体を見ると菩薩のような雰囲気を放っていて、尊い感じさえしてくるのが不思議です。

村上は、この女性を理想の女性と言っているようです。理由はいまひとつ判りませんが、彼の生い立ちや絵画への考え方が反映されているのだと思います。京都に生まれた村上は、両親ではなく祖母に育てらています。その間、父は死去をして母は男と駆け落ちと、思春期の少年には刺激が強すぎます。

その後、彼は絵の道を目指し京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に進みます。文展などの公募展にも積極的に挑戦して、高い評価を受けることになります。しかし、文展の審査基準を問題視して若い画家仲間と新たに国画創作協会を作り、制作と発表を開始するのです。

そして、今回の展覧会で出会うことのできた『裸婦図』が生まれるのです。もともと仏教に対する関心が強く、仏教をテーマにした作品を残していることから『裸婦図』にもその影響があると思えます。しかし、官能的でエロティズムを含んでいる点は、仏教からは少し外れたところにテーマがあるようにも思います。

この『裸婦図』以降、女性の肖像は描いていないとも言われています。その理由も判りませんが、ひとつの到達点に達してしまったのではと思っています。断言は出来ませんが、晩年は病気と闘いながらの制作、海外留学の断念など不本意な状況が続きます。そうだったからこそ、あのとき『裸婦図』が生まれてきたように思うのです。

※山種美術館(2010年9月11日~2010年11月7日)