Asagi's Art News





魂と魂が結びつくとき ~ ロダンとカリエール2006年04月04日 23時47分48秒

さくら咲く上野公園は、大勢の人たちで賑わっていました。カリエールは、プーシキン美術館展に行ったときにはじめて出会った画家で、霧の中に漂うような独特の雰囲気が魅力的と思っていました。

ロダンとカリエール

カリエールの作品は、人物のフォーカスがしだにぼやけ、色彩も豊かではありません。全体として重く暗い感じがするのは、そこにいる人々の表情にも関係あるのでしょう。

カリエールの作品は、険しく深刻な眼差をして、親友ロダンの彫刻に似ているところがあります。明らかに彼らは影響し合っています。画家と彫刻家の不思議な関係がそこにあります。

ロダンの作品は、大理石や石膏で出来ています。そのためカリエールの作品とはもちろん違います。しかし、しばらく見ていると作品と空間の境がカリエールの作品のように溶け込むようにみえるものもあり驚きました。ロダンの作品に触れることは出来ませんが、作品を包む空気が共通しているのです。

彼らの作品が交互に展示される中、あさぎが気に入ったのは、カリエールが母と娘の抱擁を描いた『母性』という作品です。なぜか、そこに険しく深刻な眼差しはなく、慈愛を感じるよな優しさがありました。彼にとって『母』を扱うテーマは特別な意味を持っているのでしょう。

母性
ウジェーヌ・カリエール「母性、1882」

他の作品とは異なる印象を受けるこの『母性』は彼の人生がそうさせているのかも知れません。そこには尊い愛が存在しています。母から娘へのキスが永遠の優しさを語っているようです。

プーシキン美術館展のとき、彼の作品に出てくる人物をゴーストようだと思ったのですが、やはり今回もこの作品を見るとそう思います。魂と魂の結びつきが描かれているようです。

※国立西洋美術館

猫 ~ 藤田嗣治展2006年04月10日 00時25分07秒

海外で高い評価を受けるが日本国内では批判の矢面に立つ、そういったことはいまも続いています。エコールド・パリの時代に生きた藤田嗣治もそのひとりです。

彼の作品を思い出したときに誰もが乳白色の美人と猫だと思います。今回の展覧会では、そういった作品は戦前のものとして前半分に登場します。いままで、あさぎは彼の一部しか知らないかったということです。

知らなかった後半は、色彩豊かな作品に変わりいき、厳しく荒々しい戦争画が登場してきます。そして再び乳白色の肌色を取り戻したかと思うと最後には宗教画へと移って行きます。彼への印象が変わっていく気がしました。

彼がパリに渡り各国から集まった才能の中で、独自の世界を作りあげていったことは素直にすごいことと思います。そして、日本人であることを誇りにすることで生き残っていったのだと思います。パリでの彼の奇行を取り上げその真相を探る雑誌やテレビ特集がありましたが、あさぎにはいまひとつクリアになりませんでした。

それはミステリーの謎解きで頭で理解できても、絵画の世界ではだめなようなのです。あの乳白色の肌から感じるものは、彼の行動とは逆のようなまじめで愚直な感じを受けます。そして、あの猫です。なぜ、彼は自画像に猫を描いたのでしょうか?

自画像
藤田嗣治「自画像、1929」

あさぎは故郷へのノスタルジーではないかと思いました。当時、パリにいる日本人など数えるほどだと思います。東洋人を見つけるのだってたいへんだったかも知れません。当時の海外に渡るということは、いまとはまったく違うはずです。

そう状況でたまたま出会った猫たちは、日本で見る猫たちと同じ顔つきをしています。そこで彼らに心惹かれてしまったのではないのでしょうか。志が高く夢があって突き進んでも、ふとした寂しさは身に染みるはずだと思います。あさぎはそんなふうに思って描かれる猫たちを見ていました。

後半部分にさしかかって驚いてしまうのは、日本に一時戻り戦地におもむき描いた戦争画でした。戦争を描くこと自体にショックがあるのですが、壁画のように大きいキャンバスに戦いの空しさ残酷さがにじみ出ています。半世紀以上も経っているのに、その場にいるような迫力と恐怖が伝わってきます。

アッツ島玉砕
藤田嗣治「アッツ島玉砕、1943」

愛くるしい猫の絵を描く彼の作品とは、思いたくないような気分になります。 息がつまり切ない場面がそこにあります。この戦争画を描いたことで彼が再び日本を離れることになるのですが、やはり彼は日本では生きていけなかったのでしょう。そして、日本も彼を受け入れるだけの余裕がなっかたのかもしれません。

晩年、彼はカトリックの洗礼を受け宗教画を残しているのですが、いったいどんな祈りをささげていたのか気になります。時に画家たちは神に導かれるように作品を描いていきます。最後に彼が選んだテーマには、いったい何があったのでしょうか?

※国立近代美術館

絵画のように ~ 老人と海2006年04月16日 00時53分04秒

アニメとアニメーションは違うのでしょうか? 量販店のDVDコーナーには、アニメと言われる作品がたくさん出回っています。最近のアニメはどれも似たような感じがして、あまり見ていませんというか、あさぎの好きな作品は、ある意味個性的なのかもしれません。

国内を問わず海外の作品も好きで、セルアニメーションやCGアニメーション以外にも興味があります。この『老人と海』は、文豪ヘミングウェーの短編小説でカリブの海で繰り広げられる老いた漁師とカジキとの死闘を描いた名作ですが、流行りのアニメーションとは少し違います。

老人と海
アレクサンドル・ペトロフ「老人と海、2000」

『老人と海』は、いくども映画や芝居の題材になっているのですが、あさぎはこのアニメーション版がいちばん好きです。このアニメーションの特徴は、画面になるすりガラスに油絵の具で絵を描いていく独特のアニメメーションです。

温もりのある表情が画面から伝わってくるこの手法は高く評価され第72回のアカデミーショー賞(短編アニメーション部門)も受賞しています。絵画が動き出すそんな感じもします。セルで描く平面世界ともCGの作られた擬似世界とも異なる人間的な世界だと思います。

例えば、変わり行く海と空の表情が豊かで奥行きがあります。これをセルやCGで描いたらたぶんつまらない・・。カジキとの死闘も迫力がありセルやCGでは表現できない深みがあるのです。

絵画と同じように微妙ですが絵の具による立体感があるのだと思います。 日本語ナレーションは、三國連太郎がつとめ作品を引き締めています。30分程度の短編ですが、見終わるととてもさわやかな感じがします。

こういう作品をもっと見たいのですが、なかなか出会うことができず、あさぎが持っているこのDVDもいまでは廃盤になっています。アニメは日本の文化と言う人が増えてきましたが、本当にそうであるかはこういった作品が出てくる限りどうかと思うような気がします。

平和への祈り ~ ケーテ・コルヴィッツ展2006年04月19日 00時51分54秒

東京の外れ、町田に少し変わった美術館があります。そこは出かけるには少し不便なのですが、静かな公園の中にある版画の美術館です。駅からも離れているのですが、緑の木々が見えはじめると厳しい坂道が谷底に続きます。駅前の喧騒とは別つの静かな場所です。

ケーテ・コルヴィッツ

各美術館がドイツ年を記念して行っている展覧会のひとつで、平和の祈りと題してケーテ・コルヴィッツの作品展が行われていました。彼女は2つの戦争の中を生き、その中で最愛の家族を失っています。第一次大戦ではひとりは自分の息子を、第二次大戦ではその孫を戦争の犠牲に取られてしまいました。

作品には、その悲しみが色濃く表れているようでした。もともと人間の心の内の表現に興味があったようですが、彼女に起こる人生の転機にあわせて人間への悲哀を作品にぶつけていくようです。

前半ではリトグラフなどを使い細かく細い線で作品を作っているのですが、あるとき木版に変化し大胆な太い線の作品に変わって行きます。展覧会のポスターにもなっている「寡婦I」は、行き場のない悲しみが表れいるようでとても重い気持ちになります。

寡婦I
ケーテ・コルヴィッツ「寡婦I、1921」

悲運に耐えて祈りを続ける・・。絶望に向き合い僅かな望みで立ち向かう強さがそこにあります。折りしも広島では、世界遺産の原爆ドームを100周年になるまで現状を維持するとのニュースがあり、平和と何かを考える機運が出てきたと思います。

画家の訴えることは、深く重いことです。それは、人はなぜ戦いを繰り返すのか、憎しみと悲しみの連鎖の断ち切ることはできないのかという心の叫びなのでしょう。平和への祈りが伝わってくる展覧会でした。

※町田市立国際版画美術館